プロフィール

2016年4月19日火曜日

北野武は東京都の足立区で、父・菊次郎と母・さきの間に五男として生まれます。

彼の本名である「武」という名前は、竹のようにどんなものにも耐えて、すくすく伸びてほしいとの願いを込めて命名されました。

武の母・さきは独自の教育論を持ち、教育を第一に考える女性でした。

若い頃から頭の回転の速い女性だった彼女は、子どもたちの教育と成長を何よりも大切に考え、そのためには寸暇を惜しまず手を貸しました。
 
さきは子どもたちが10歳になるまでは、毎晩欠かさず鉛筆を削り、ノートにきちんと学習の後が記されているかを確認していました。

子どもたちが登校した後も、彼女は休まず子どものことを考えます。

朝10時になると、学校へ足を運び、教室の窓から子どもたちが勉強する様子を見守っていたというのです。

それほどに彼女は教育熱心な女性でした。

こんな彼女の熱心な教育が北野武のような奇才を育てたのです。

貧しかった北野家では、小さな裸電球の下のみかん箱のような机で、子どもたちが勉強をしていました。

しかし、父・菊次郎が帰ってくると電球が明るくて眠れないと怒鳴ります。
 
そこでさきがどうしたかと言うと、大きな懐中電灯と塩むすびを携えて、近所の街灯の下へ出かけていくのです。

そこでしゃがんで本を読む子どもたちを、ずっと懐中電灯で照らしてたというのだから驚きです。
 
教育熱心だった彼女のエピソードは他にも多く残っています。

武は高校卒業後、明治大学に入学しますが、次第に自分にしかできないものに挑戦したいと考えるようになり、大学を中退します。
 
その後の彼はお母さんの期待をはるかに上回るような活躍を繰り広げていくのです。
 
武が幼少期に教育熱心な母に教えられて蓄えた教養や考える力は、タレント、映画監督、作家、教授など様々な分野にわたる活躍の礎となりました。

母の存在があったからこそ、武の才能が育まれたのです。そんな母・さきですが、武が「ツービート」として有名になり始めた頃から、お金を母に納めるよう、しつこく訴えるようになりました。
 
武は母も金の亡者になってしまったのかと半分あきれていたそうです。
 
しかし、後になって真実が明らかになります。

さきが亡くなる数か月前のことでした。
 
武は軽井沢に母をお見舞いに行き、その帰り際に姉から包みを受け取ります。
 
さきからだというのです。
 
堤を開けた武は息を呑みました。
 
それは彼名義の郵便貯金通帳と印鑑だったのです
 
さきが武から小遣いとしてねだり受け取っていたお金は
 
一銭も使うことなく、すべて彼のために貯金されていたのです。

その総額は1千万円近くにも達していたそうです。
 
さきはいつも、

「芸人はいつ落ち目に
 なるかわからない」
 
と彼を案じていました。
 
彼の人気がなくなっても困らないようにと、お金を貯めておいたのです。
 
彼はこの包みを握りしめ、涙が止まらなかったといいます。

武は自ら母のことが

大好きだと公言しています。

「30歳を過ぎて親を
 許せない奴はバカだ」
 
とも言っています。
 
自分に愛情と熱心な教育を与えた母の影響力は彼にとって、とてつもなく大きなものだったのでしょう。
 

さきが入院しているときには頻繁に病室を訪れ、母の身を労ったといいます。
 
1999年8月、

さきが亡くなったお通夜の記者会見で、武は

「かあちゃん……」

と絶句し、体躯をふるわせて涙を流しました。
 
カメラや人目をはばからずに泣き崩れる彼の姿に、
 
インタビュアーや視聴者も
もらい泣きせずには
いられませんでした。
 
いかに彼の心の中で
母の存在が大きかったかが
よくわかる出来事でした。
 
このように海よりも深い愛情と
熱心な教育、心を尽くした
母・さきの子育ては
北野武の心に大きな影響を与え、
類まれなる才能を育てたのです。

「偉人を育てた母の言葉より」

大坪信之  致知出版社


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